尊王と攘夷との一致結合をねらい、それによって世態の変革を促そうとした安政以来の志士の運動は、事実においてその中心の人物を失ったとも言ってある。平田門人としての自分らは――ことに後進な自分らは、彼真木和泉が生涯(しょうがい)を振り返って見て、もっと自分らの進路を見さだむべき時に到達したと言ってある。
半蔵はその手紙で、中津川の友人香蔵がすでに京都にいないことを知った。その手紙をくれた景蔵も、ひとまず長い京都の仮寓(かぐう)を去って、これを機会に中津川の方へ引き揚げようとしていることを知った。
真木和泉の死を聞いたことは、半蔵にもいろいろなことを考えさせた。景蔵の手紙にもあるように、対外関係のことにかけては硬派中の硬派とも言うべき真木和泉らのような人たちも、もはやこの世にいなかった。生前幕府の軟弱な態度を攻撃することに力をそそぎ、横浜鎖港(さこう)の談判にも海外使節の派遣にもなんら誠意の見るべきものがないとし、将軍の名によって公布された幕府の攘夷もその実は名のみであるとしたそれらの志士たちも京都の一戦を最後にして、それぞれ活動の舞台から去って行った。
これに加えて、先年五月以来の長州藩が攘夷の実行は豊前(ぶぜん)田(た)の浦(うら)におけるアメリカ商船の砲撃を手始めとして、下(しも)の関(せき)海峡を通過する仏国軍艦や伊国軍艦の砲撃となり、その結果長州では十八隻から成る英米仏蘭四国連合艦隊の来襲を受くるに至った。長州の諸砲台は多く破壊せられ、長藩はことごとく撃退せられ、下の関の市街もまたまさに占領せらるるばかりの苦(にが)い経験をなめたあとで、講和の談判はどうやら下の関から江戸へ移されたとか、そんな評判がもっぱら人のうわさに上るころである。
